新百合ヶ丘「nichinichi」改め「パんトアナタ」
川崎市・新百合ヶ丘のパン屋さん「nichinichi(ニチニチ)」が、惜しまれながら店を閉じたのが2024年3月のこと。人気店ゆえの駐車場問題を解決するため、そしてなによりオーナーシェフの川島善行さんの思いを形にするため、準備期間を経た2024年12月、新たなパン屋、もとい「パん屋」を開きました。
その名も「パんトアナタ」。英語で書くと「pan ‘n’ you」。「ん」の意味がおわかりいただけるかと思いますが「ん」に込めた思いはほかにもあって、これについては最後にお話させてください。


「キタノカオリ食パン」ほか定番パンの味わいはそのままに、新たなラインナップも加えつつ、何より変化したのは完全予約制のセット販売になったこと。予約日時をLINEで受けつけ、7〜8種類が入ったパンセットのみを販売します。
「以前はスタッフ20人で毎日60種ほどのパンを焼いていましたが、それでも売り切れてしまい、お待たせした挙句に買えないお客さまもいらっしゃった。路上駐車の問題があり、近くの住宅展示場に販売店舗を移しましたが、結局、待つお客さんで駐車場がふさがってしまう。根本的に解決するには、店のあり方をまったく変える必要があったんです」
店名も内装も一新し、長年パン作りをともにしてきた原千映子さんとともに迎えたプレオープンの日。店の窓に手書きの紙を貼っただけの告知にも関わらず、待ちわびていたお客さんが次々とやってきて、店の再開と川島さんたちとの再会を喜びました。
「予約をしてくださるのは、パンを介して僕らに会いに来てくださる方ばかり。そういうお客さまだからこそ、ひとつずつパンの説明をしながらお話しできることに満足していただけるし、僕らもそういうお客さまを大事にしたいと思っています」
パン教室「シン・ニチニチ」と香港の「33cubread」
「パんトアナタ」は月8日ほどの不定期営業です。そのほかの日は、川島さんは以前からクッキングスクール「HAPPY COOKING」の講師を務め、加えて「シン・ニチニチ」という名のパン教室を主宰し、自店に生徒を迎えるだけでなく、全国へ出向いています。
「以前、料理専門学校の非常勤講師を引き受けたときに、人に教えることが楽しいなと思いました。もともとお笑い芸人をやっていたこともあって、人と会うことが好きなんです。最初はHAPPY COOKINGの講座を持って、そのうち、あちこちから声がかかるようになりました」
川島さんが吉本興業に所属する芸人だったことは有名ですが、「去年は全国70本くらいまわりましたよ」と話すのは、まるでライブツアーのことのよう。

物怖じしない姿勢で海外へも活動の幅を広げ、2024年11月末には香港でプロデュースを引き受けた「33cubread」がオープンしました。「3」は香港で縁起のいい数字。nichinichiのロゴとテーマカラーのオレンジ色を引き継いだ店にはキューブ型のパンが並び、連日行列のできる人気が続いています。
「香港では真っ当な価格でパンが売れるんです。たとえば日本で500円のパンが、まったく同じ材料を使い、同じように焼いて1000円以上で売れる。原価と手間に見合う価格です。自分たちの仕事がきちんと評価される海外のお仕事にも挑戦していきます」
終わりと、はじまりと
順風満帆に進むように見える川島さんですが、パンとの出会いは大いなる挫折がきっかけでした。ダウンタウンに憧れて、高校卒業後にお笑いの世界に飛び込み、吉本総合芸能学院(通称NSC)卒業後もコンビとして活動しますが、24歳で芸人の道をあきらめます。
「芸歴1年目からルミネに立って、いわゆる営業ももらえたので食べてはいけてたんです。でも舞台でめっちゃ笑いを取る先輩がバイトに行く姿を見て、成功するのは万にひとりの厳しい世界だと痛感しました。コンビで話し合って目標を定めて、そこまでいかなかったら、きっぱりあきらめようと決めたんです」

辞めてしばらくは失意のどん底で、食べることも眠ることもできず、ひたすら走って自分を強制終了させる日々。ひと月でみるみる20kgもやせた川島さんを心配し、当時の彼女が差し入れを持って訪ねてきますが「僕は人に会いたくない。何でもいいから口に入れれば、帰ってくれるかなと思って」
差し入れのパンをひと口食べてみると「うまっ!」。それが予想外においしかった。「男性ならわかってくれると思うんですが、高校生が昼食代1000円をもらったら、紙パックのでかいドリンクと、でかいパンを買って、おつりをおこづかいにするんです。できるだけ安く、お腹を満たすもの。僕にとってはそれがパンでした」

パンの印象が塗り変わり、そのおいしさに目覚めた川島さんはパン屋めぐりをはじめます。店ごとの味のちがいがわかるようになり、食べるだけでは飽き足らずに我流でパンを焼きはじめた頃。
「母が末期がんだと知らされて」。母子家庭の3人兄弟。大学生の弟は実家を離れ、嫁いだ妹は出産したばかり。「僕しかいない」と長男の川島さんは実家に戻ることを決めました。入退院をくり返す母に付き添う日々を10か月ほど送ったある日、家庭用オーブンでパンを焼こうとしていた川島さんに病院から連絡が入ります。
「母を看取って帰ってきたら、生地が過発酵していました」。その後、川島さんはパン屋に勤め、26歳でパンづくりの道へと踏み出します。
日々、食べてもらえるパンを作りたい
パン屋に勤めて3年が経ち、ひととおりパンは焼けるようになったものの、「なぜパンはふくらむの?」という質問に答えられず、川島さんは改めて製パン技術を学ぶため、日本パン技術研究所に通いはじめます。
「製パン企業の人も学びに来るようなところで100日コース。早朝に家を出て、帰宅は夜。通学するのは週5日ですが、週末はレポートをまとめるから、毎日フルで取り組んでいました」
パン屋を辞めて収入もないまま背水の陣を敷いたのは「このままでは自分のレシピを生み出せない」と思ったから。芸人時代も自分の生み出したネタで人を笑わせてきた、だからこそ「きちんと理論を身につけないと、パクリになってしまうと思いました」


独立を視野に入れ、次に勤めたのはリッチでやわらかな食感の生地が人気の店でした。「個人的にはハード系のパンが好きですが、小さなお子さんやお年寄りは食べづらいですよね。自分が食べたいパンよりも、お客さんが食べたいパンを作りたいと思うようになったんです」
ここで3年の経験を積み、いよいよ2016年に独立を果たし、新百合ヶ丘にnichinichiをオープンしました。店名どおり、日々食べてもらえるパンを焼き続けて7年半。川島さんのパンは広く愛されて、冒頭で述べたようにnichinichiは人気店になっていきました。
「これなら高加水のレシピがそのままいける」
ふわっもちっとしているのに歯切れが良く、小さな子どもも食べやすい。そんな川島さんのパンの作り方を教室で教えてほしいと請われ「手ごねじゃ難しいし、家庭用のパンこね機でこね上げるには、加水率を落とさなければならない。それでは僕のレシピではなくなってしまう」
そんなジレンマの中で、BRENCとの出会いがありました。「ロティ・オラン」の堀田誠シェフが主宰する教室で高加水生地もこねられるニーダーのことを聞きつけ、川島さんはアシスタントとして参加しました。
「高加水の生地はゆるすぎて、グルテンが形成されにくいんです。BRENCでこねた生地は、ハリを感じます。経験上、きちんとミキシングができないと、この生地にはなりません」

「BRENCは羽根が注目されがちですが、僕は容器推しです」と川島さん。BRENCの透明容器は七角形で、この特殊な形が内側から生地をこねる力を生み出していると考えられます。
「お店では業務用のミキサーを使い、東京の教室では小型のニーダーを使う。地方の教室では手ごね。作る条件に応じてレシピを変えますが、BRENCならお店のレシピがそのままいけます」。川島さんのお店に並ぶパンと、家庭でのパン作りをつなげられるのがBRENCのニーダーなのです。
「ん」を噛み締めて。そして日々は続く
さて、完全予約制となった「パんトアナタ」のパンセットは予約日ごとに内容が変わりますが、7〜8種の中に必ず「ん」という名のハード系パンが入ります。五十音順の最後の文字に、川島さんは「終わりを噛み締めてほしい」との思いを込めます。

大切なものにも終わりがあり、一度失ったものは二度と戻ってこない。そのことを川島さんは嫌というほど知っている。だからこそ、パンでつながる目の前の「アナタ」を大切にしたいと考えているのです。
「パんトアナタ」のテーマは「アナタとの関係を大切にする」こと。そして、パン教室「シン・ニチニチ」のテーマは「日々続けられるパン作り」です。パンを介して人と向き合う川島さんの日々は続きます。

取材・文/塚田結子(編集室いとぐち) 写真/宮崎純一 (2025年2月14日公開)
かわしま・よしゆき
1982年生まれ、群馬県出身。お笑い芸人を引退後、26歳からパンの道に進む。2016年、新百合ヶ丘に「nichinichi」を開店。国産小麦ほか国産の材料を使い、最先端の技術を使ったパン作りで人気店に。2024年3月の閉店後はレッスンに特化した「シン・ニチニチ」として全国パン教室やプロ向け講習会を行う。同年、香港にプロデュース店「33cubread」、新百合ヶ丘に完全予約制「パんトアナタ」をオープンした。