JOURNAL

わいんのある12ヶ月 高橋雅子さん

東京・渋谷区西原。
起伏に富む住宅街の坂道を、強すぎる小暑の太陽が照りつけるなか、
高橋雅子さんが主宰する「わいんと12ヶ月」のスタジオを訪ねました。
高橋さんは、家で作る自家製酵母パンの第一人者です。
BRENCのためのレシピ撮影をしながら、率直で飾らない言葉で語られる高橋さんの半生を、
ニーダーでこねあげた生地がおいしく焼き上がるまでの写真とともにお届けします。
わいんのある12ヶ月 高橋雅子さん

まずは自分の好きなことを極める

20代前半で大手料理教室の製パンコースに通いはじめた高橋さんは、基礎から学んで師範科へ進み、その後しばらくアシスタントを務めました。

ふわふわとしたイースト発酵のクリームパンやあんパンを焼くだけでは飽き足らず、次に門を叩いたのは、当時、代官山にできたばかりの「ル・コルドン・ブルー東京校」でした。ここでバゲットやカンパーニュなど、フランス式のハード系パンの製法を身につけます。

フランスの食事といえば、ワインとのマリアージュを楽しむもの。必然的にワインに魅了された高橋さんは、ワイン教室へ足を運びます。気楽に行ったはずの教室は、ソムリエ(当時はワインアドバイザー)資格取得のための実戦派。ここで高橋さんはソムリエ資格を取得しました。

結婚して専業主婦となっていた高橋さんは当時30歳。「1990年代後半は、まだまだ日本は潤っていて、定年退職をしたおじさんたちは時間とお金を持て余していたんです」。そして義母の発案でワイン教室を主宰することに。それが「わいんのある12ヶ月」のはじまりです。

ちなみに「わいん」と、ひらがな表記にしたのは、なぜですか?「何でだっけ、かわいいからかな」

メンバーは、ほぼ男性。義母の知人の夫たちを集めて、毎回、飲みたいワインを5本ずつ選んで。「人数がいれば、高いワインも飲めますから、これはいいぞ、と(笑)」

高橋さんは、こともなげに言いますが、30歳の女性が、目も舌も肥えた人生経験豊富な年配の男性を相手にするのは、察するに、よほどの準備と覚悟が必要です。それでも教室という事業は性に合い、生徒は20人まで増えていきました。


今日作るのはバタートップとベーグル。まずはバタートップの材料をBRENCのニーダーへ

こねあげた生地を成形中。時間や温度を見計らいながら、いくつもの作業を同時に進めていく

限定のワイン教室から、人気のパン教室へ

ワイン教室を開いて3年ほど経った頃、赤ちゃんを授かり、教室は解散しました。「ワインは飲めないし、時間は持て余すし。当時、耳にするようになった自家製酵母パンを勉強してみようと思ったんです」

パン作りを再開した髙橋さんは、1歳になった息子を保育園にあずけ、屋号はそのままに、自宅でパン教室をはじめます。とはいえ、無名のパン教室の集客に苦労したのではないでしょうか。

「もちろん最初はひとりもいませんでした。でもチラシを配って近くの人を集めるつもりはなく、当時はまだ珍しかったホームページを立ち上げました。がんばってブログも書いていました」

やがて、全国から少しずつ生徒が集まり、しかもリピートする人がほとんどで、半年ほどで定員50人に達しました。

「自家製酵母の起こし方は、富ヶ谷にある『ルヴァン』の本で学び、必死に作りました。でも、毎日パンを焼くお店のやり方なので、酵母を継いでいくんです。そうすると家を空けることができないし、遠出しても酵母が気になってしまう。疲れてしまって、使い切りの酵母を考えました。これだと酸っぱくないから、子どもも食べやすいんです」

また、当時はイーストをしっかり使って短時間で焼くパンが主流でしたが、独特のイースト臭が残ります。そこで高橋さんはイーストの量を減らし、代わりに冷蔵庫で長時間発酵させるやり方を考案します。

かけ継ぎせず酸っぱくない自家製酵母パンと、イーストを減らした長時間発酵のパン。この2本立ての教室は人気を博し、名実ともに予約の取れない教室になりました。海外から飛行機で通ってくる生徒もいたといいます。


二次発酵を終えた生地に切れ目を入れ、これでもかとバターをのせる

試行錯誤のレシピが重版される本になる

「おいしいのはもちろん、いかに作りやすく、生徒さんに家でも焼いてみようと思ってもらえるか」——そこに心をくだき、何度も試作をくりかえし、レシピを完成させ、教室ではその試行錯誤も含めて工程をわかりやすく伝える。

そんな苦労して確立したレシピを本にしようと高橋さんは行動を起こします。「知らぬ間に自分のレシピが他人の手によって本にでもなったら、自分のほうがレシピを真似したことになってしまう」。危機感をもって、すぐさま出版社に企画書を持ち込みました。

「当時、自家製酵母パンのレシピブックも、あるにはあったんですが、マニアックな内容で要領を得なかった。私だったらこうするのに、という思いを注ぎ込みました」
そして2006年、初の著書『「自家製酵母」のパン教室』がパルコ出版から発刊されます。

パン教室で教えてきたノウハウを生かして、簡潔でわかりやすくまとめたレシピブックは大ヒットを重ね、2012年には続編も作られました。

その後も出版する本は次々と重版され、気づけば売れっ子になっていた高橋さん。まとまった印税を手に、次なる行動に移ります。


バタートップ焼き上がり。「生徒さんに流行ってるパンを聞いたら、バタートップだって」

カフェのつもりが行列のできるベーグル店に

カフェを営む知人に「高橋さんもカフェをやったら」と促され、それも悪くないと不動産屋へ足を運び、紹介されたのが代々木公園駅そばにある、かつて雀荘だった物件でした。

「汚かったけど、その場所が気に入ってしまったんです。39歳の女が何の後ろ盾もなく、自分の手ではじめるには、こういうところだなって」

いざ、カフェをはじめようとした高橋さんに、パン屋を営む知人から「待った!」の声がかかります。「カフェをやるなら、パンを売りなさい。カフェはお金がかかって、もうけを出すのが大変だから」と、愛のある説教つきでアドバイスを受けたのです。

カフェなら人に任せられると目論んでいたものの、バゲットやカンパーニュを売るとなると、毎朝、自分が行って仕込まなければならない。まだ幼子を抱える高橋さんには、なかなかの難題でした。

「だったらベーグルやりなさいよ」。そんな助言をくれたのは、パン教室を営む知人でした。「ベーグルなら、レシピさえ考えれば人に任せられるから」。なるほど「でもね」と高橋さん。「私自身はベーグルが好きではないんですよ」

パン教室のアシスタントも、懇意にしている編集者も、ベーグルが大好き。彼女たちに聞くと「あそこの店はモチモチでおいしい、こっちはフカフカ、どこそこはズッシリしていると、食感の話ばかりするんです」

そこからヒントを得て「もち」「むぎゅ」「ふか」の食感ちがいのレシピを考案し、2009年にベーグル専門店「テコナ ベーグル ワークス」を開店しました。当初はカフェメインの店でしたが、これまた高橋さんのベーグルは人気を集め、販売のみに切り替えました。

開店の翌年には、現在の店長である小林千絵さんが参加。パティシエだった小林さんはぐんぐん頭角をあらわし、「教えたのは最初だけ。今は全部任せて、彼女のレシピになっています」


「ベーグル生地をニーダーでこねられるなんて、BRENCはえらい」。うれしい言葉をいただきました

人に恵まれ、パン作りをする人をつなげる

「私はまわりの人に恵まれていて、自分の足りないところを補ってもらっている」と高橋さん。そしてパン教室は相変わらずキャンセル待ちが続き、生徒数は今や140人に上ります。

「生徒さんは、パン教室の先生が多いです。私よりパンを作るのが上手な人たちが来ていて、教わる必要なんかないのに、なんでだろうと考えたら、たぶん情報交換の場になっているのかなって」

そうした気づきを得て、パン教室をしている人、これからはじめる人、さらにパン作りをするすべての人に向けて、2019年に立ち上げたのが、コミュニティサイト「Bread Republic」です。

高橋さんが培ってきた技術と人脈を注ぎ込み、人気のシェフにパン作りを習ったり、気になるパン教室を取材したり、パン教室で使えるレシピを紹介したり、さまざまなコンテンツを発信しています。

次々と新たな活動をくり広げる高橋さんですが、息子さんの話になると、その頬がゆるみます。

「あんなに小さかった息子が、今は大学生。誰に似たのか、お酒ばっか飲んでます。でもワインは好きじゃないんです。飲むのはバーボン……赤ちゃんだったのに!」

いつかワインバーをやってほしいと密かに望み、お気に入りのワインを飲まずに取ってあるのだとか。高橋さんなら、この夢もいつか叶えてしまうのでしょうか。


今日のベーグルは「ふか」。つやつやむっちり焼き上がり

人に恵まれ、パン作りをする人をつなげる

パンがオーブンに入り、撮影がひと段落すると、やがてパンの焼けるいい香りが漂ってきました。ふとスタジオを見回して気づくのは、ワインの箱がやけに多いこと。

「じつは酒販免許を持っているんです。教室で月ごとにワインをお出しして、欲しいかたには予約してもらっています」

高橋さんのパン教室は、パンの作り方を教えるだけでなく、料理とワインも合わせたマリアージュを提案して一緒に食べるスタイル。こうしたやり方は、ソムリエ資格をもつ高橋さんならではでしょう。

「料理研究家を名乗っているわけではないのですが」と言いつつ、SNSで見るその料理はどれもおいしそう。そういえばスタジオのあるこのあたりは、料理研究家やフードスタイリストの住まいが多く、高橋さんも何冊かおつまみの本を手がけています。

「ここにスタジオをかまえたのは、お店の近くだったからだし、これまで思いつきでやってきました」と高橋さんは言いますが、自家製酵母の家庭製パンという道なき道を切り拓き、多くの支持を得てきたのは、その発想力と実行力があってこそでしょう。

取材・文/塚田結子(編集室いとぐち) 写真/宮崎純一


たかはし・まさこ

1969年生まれ、神奈川県出身。製パンスクールでパン作りを学び、アシスタントを務める。ル・コルドン・ブルー東京校でハード系パンの製法を学び、さらに日本ソムリエ協会認定ソムリエ(当時はワインアドバイザー)資格を取得。1999年から「わいんのある12ヶ月」を主宰。著書に『「自家製酵母」のパン教室』(パルコ出版)ほか多数。2019年からパンを作る人のためのコミュニティサイト「Bread Republic(通称ブレリパ)」の運営を開始。

わいんのある12ヶ月
公式サイト|https://wine12.com/
Facebook|https://www.facebook.com/panwine12
Instagram|https://www.instagram.com/winenoarumasako/

Bread Republic(ブレッド・リバブリック、通称ブレリパ)
公式サイト|https://www.bread-republic.com/
Facebook|https://www.facebook.com/breadrepublic2019/
Instagram|https://www.instagram.com/bread.republic/